*オレンジ色の字は感想。
Contents
第5話 菊池氏先駆け
文永11年10月19日(西暦1274年11月18日 西暦への換算はkeisanによる。)22時、 蒙古軍の先鋒 高麗軍が博多湾岸に上陸した。
高麗軍は、博多湾岸にある麁原山(そはらやま)を占領し、更に日本勢の赤坂山警護所を攻撃。翌日の未明に陥落させた。
赤坂山は博多から2.5キロメートル西にある小高い丘である。
古代には外交の接待施設 鴻臚館(こうろかん)があり、近世には福岡城が築かれた。
日本軍の大将は少弐経資(しょうに つねすけ)。
軍議において経資は一刻も早く赤坂山を奪還しようと提案するが、千葉氏、宇都宮氏など有力武将の反対にあう。
経資は、赤坂山は日本勢の陣地である博多も筥崎(はこざき)も一望できるので堅固な城ができる前に奪還する必要があると考えている。
武将たちは、赤坂山付近は山、沼であり足場が悪く武功があげられない、また、異国の兵の様子がわからないので、誰かを先に戦わせて様子を見たいと考えている。
経資は博多の息浜(おきのはま)で蒙古軍を迎え撃つことにする。
その理由は、反対を押し切って失敗すれば武将たちの支持を失ってしまうからである。大将といっても、少弐家も一御家人に過ぎない。
博多から北東へ2キロメートル離れた筥崎(はこざき)八幡宮に日本軍の本陣がある。
八幡宮で少弐資能(しょうに すけよし)とその子 景資(かげすけ)が祈っている。
資能は、博多に経資を、赤坂山に景資を配置することにした。自分は、大宰府を守る。
翌朝、景資は博多 息浜に赴き、兄 経資と交代した。早速、武将たちに赤坂山奪還を提案するが、既に息浜を戦場にすると決まっていると反対される。
一方、簑島(博多と筥崎(はこざき)の中間地点)には、肥後の御家人 菊池氏が布陣している。
菊池武房は慎重論を排し、九州武者の戦い方を坂東武者に見せようと出陣する。元軍に向け最初に動いたのは菊池氏。
菊池氏は赤坂山を奪還し、高麗軍は麁原山(そはらやま)に退却した。
第6話 竹崎季長
肥後の御家人 竹崎季長は窮乏しきっている。
武功を立てようと先駆けをすることにした。
季長は馬上から景資にさきがけを願い出た。景資は引付(成績表)の筆頭に季長の名を書くと約束した。
これを見ていた武将らが先を争って出陣していく。
季長は赤坂山から戻る菊池武房と出会った。
季長は武房の姿に自分の理想とする武士の姿を見て感涙し、「菊池武房 日本一の武士(もののふ)なり」と叫ぶ。
季長は、武房に追われた蒙古軍に攻撃を仕掛けた。
季長は蒙古軍に火薬を投げられ落馬した。そこに蒙古軍が殺到し、季長は万事休す、かに思えたが、後続の白石勢に救われた。
この後、日本軍、蒙古軍が集結し、文永11年10月20日(1274年11月26日)鳥飼合戦が始まる。
第7話 大蔵太子
これより数日前、蒙古軍の武将 金侁(きんしん)の船が対馬海峡付近を航海していた。
帆の故障で、本隊から遅れ、金侁はひどく焦っている。
この船に、朽井迅三郎、迅三郎と対馬で知り合った張民福が乗り込んでいた。
壱岐を通り過ぎるころ、大蔵太子(おおくらのふとこ)率いる小船団が、金侁の船を襲撃した。
太子は、天草本渡島の地頭 大蔵氏の総領娘。
太子が妙に薄着なのが謎
第8話 迅三郎 渡りに船
迅三郎は帆の上に姿を隠していたが、明福が迅三郎に救援を求めたため、姿を見られてしまった。
迅三郎に向けられた弓が、帆を壊してしまった。
航海の遅れに焦っていた金侁が激怒。
狂ったように迅三郎に攻撃を仕掛け、義経流の名手である迅三郎も押され気味。
壱岐からの蒙古勢の加勢を見て、太子たちは引き上げることにする。太子たちの船に、迅三郎と明福も乗船して逃げる。
金侁は発狂したように激怒し、他の兵士たちが見ている中、船頭を斬り刻む。
一方、太子は迅三郎に博多まで乗せて行ってやるが、大宰府に島抜けの咎人(とがにん)として差し出すという。迅三郎は「渡りに船だ」と返す。
コメントを残す